第12回 帆船時代の食事(3) ー 提督の食卓(前編) ー
海軍の高級士官といえば、やっぱり艦長以上を指すと見ていいでしょう。もっともこの階級といえども様々な相違があって、下はコマンダー(海尉艦長)から、一番上は古手の艦隊司令長官(多くは海軍大将)までその差もかなりあるのです。取り敢えず今回は正規艦長直前のコマンダー(海尉艦長)の食卓を覗いてみましょう。コマンダーは高級士官とはとてもいえないのですが、小なりとはいえ一艦を預かって権威を振るうわけですから、乗組員から見ればやはり神に近い存在ではあります。
前にも説明したのですが、士官クラスは食事と衣服は基本的に自分持ちです。しかし海尉艦長ともなると儀礼的にも乗組み士官たちを招待して食事をする機会も多く、そのための食料などを含めて多くのものを自ら用意しなければなりません。これは大きな負担で、ホーンブロアが初めて正規の海尉艦長に就任し、スループ艦ホットスパーに乗り組んだ時にはあまり金がありませんでした。
「・・・身支度を整え朝食をとる時間がある。時間は十分——ホーンブロアは、いろいろな望みが頭をもたげるのを感じた。コーヒーを一杯飲みたい。濃く、口が焼けるほど熱いコーヒーを、二杯も三杯も飲みたかった。といってもわずか2ポンドのコーヒーしか持っていなかった。1ポンドが17シリングもしては、それ以上買う余裕はなかったのだ。」(以下「 」内は全て菊池光訳)
ホーンブロアはコマンダーになる直前に得意のホイスト勝負で奇跡的に45ポンドを稼いでいます。これは古手艦長の1か月の給料(38ポンド)を上回る高額なのですが、「艦上で着る衣類と剣を質から出さねばならず、艦長室の家具も買わねばならなかったし、自分の給料を受け取るまでのマリアの生活費に17ポンドをおいてこなければならなかった」のでこの45ポンドはたちまちのうちに目減りしたのです。
「だから、<艦長の個人的食糧>を買う金はほとんど残らなかった。彼は一頭の羊も豚も買っていない——にわとり一羽すらも。メイスン夫人(注:妻マリアの母親)が卵6ダース——かんな屑にくるんで、海図室の床に縛り付けてある樽に入っている——と、塩をきかせたバターを6ポンド買ってきてくれた。あと、砂糖が一かたまりと幾瓶かのジャムで金がなくなってしまった。」とホーンブロアは嘆いているのです。
そして「ベーコンもなければ瓶詰の肉もない」と思うのですが、こういった記述を見ると艦長たるものは生きている山羊や豚、あるいは牛を何頭か買い、瓶詰の、つまりかなり新しい肉を用意し、朝食用にジャムやバター、卵はもちろんコーヒー豆、それに何といってもワインとブランデーなどの酒類を何ダースも用意する必要があるのです。もちろん艦長室の家具調度も自前です。逆に言えば金さえあればどんな立派な家具でも文句は言われないということでもあります。
ちょっと興味深いのは、こういった食糧の中で魚類が一切出てこないことです。北海周辺はかなり漁獲の多いところですが、当時の軍艦になぜ魚が出てこないのか、食習慣にあまりないというよりもこんな理由が「砲艦ホットスパー」の中に述べられています。
「…海の男たちは、自分と同じ世界の生き物である魚に対してばかげた偏見を抱いている。彼らは、塩漬けの牛肉や豚肉という十年一日の如き食卓に魚という邪魔者が入りこんでくるのを極度に嫌う——もちろんその点については、魚を調理した後にいつまでもその匂いが残り、調理器具は海水で簡単に洗うだけなのでなかなか匂いが抜けないという事実を、考慮に入れてやるべきである。」
上は諜報活動のためにフランスの漁船から大量の〝さっぱ″(ニシン科のママカリです)を買った後の話ですが、もしわれわれ日本人なら刺身はもちろん酢漬けでも喜んで食べたでしょう。食習慣というものは民族の根本にあるもので、これはやむを得ないことかもしれません。
それはともかく、金を出し合って4頭も子羊を買った士官たちに対し「そのうちに彼らは子羊のローストに舌鼓を打つはずである——ホーブロアは、その日の士官室の夕食には何としても自分を招待させるつもりだった。」と企むのです。士官室で艦長を招待することもあることが分かります。
一方で、その当時どうやってコーヒーを飲んだのか、艦長付きの料理人のいないホーブロアは当番水兵グライムズにこういうのです。
「『・・・そのあと、朝食だ。コーヒーを飲む。』
『コーヒーですか。』・・・
『わしの樫の箱を取り出してここへ持ってこい。』・・・
『この中から、コーヒー豆を20粒、取り出す。それを、ふたのない広口のつぼに入れる ——つぼはコックから借りるのだ。そのあと厨房の火で豆を炒る。慎重にやれ。絶えず豆を揺り動かす。真っ黒でなく、茶色になるまで炒る。焦がすのではなく炒るのだ。わかったか?』
『はい、なんとか』
『炒り終わったら、わしからいわれたといって、軍医のところへ持って行く。』
『軍医ですか? 分かりました』・・・
『彼のところにヤラッパ根をすりつぶすすりこぎと鉢がある。そのすり鉢で豆を砕くのだ。細かく砕く。細かく砕くが、いいか、粉にするのではない。火薬の大きな粒程度にする。粉末火薬のことではないぞ。わかったか?』
『はい、分かったと思います。』
『次に——もういい、それだけやり終えたら、またわしのところへ来い。』」
とまあ、一杯のコーヒーを飲むのに大変な手間をかけています。重量1ポンド(大体450グラム)で17シリング、つまり0.85ポンド(前の基準でいうと25,500円)という高値の代物ですからホーブロアがハラハラするのも無理のないところかもしれません。しかし、グライムズは機転の利くタイプではなくやっぱり専門のコックが必要なのですが、ホーブロアは後に優秀な召使を得ることになります。
食糧とは別に艦長も乗組員も区別なく頼らざるを得ないもの、それが水です。木造帆船の水は樽に入っていてすぐにひどい状態になるのですが、それでも命をつなぐのに不可欠であることに変わりはありません。艦長専用の水というのはあり得ないのです。極限状態でもしそんなものがあったら間違いなく反乱が起こるでしょう。
フランスのブレスト軍港を監視する役についていたホットスパーは、嵐のために水が不足し港に帰ります。水の不足というのはどれほどの量をいうのか、コーンウォリス提督の食卓でそれが話題になります。
「・・・自然というには長すぎる沈黙が続いた後、コーンウォリスが一言、質問した。
『水は?』
『その方は事情が全く違っていました…入港した時は、かなり底をついていました。そのために退避したのです。』
『どのぐらいあったのだ?』
『半量で二日分です。二分の一ガロンで一週間過ごし、その前の四週間は三分の二ガロンでした。』
『ほー』コリンズ(旗艦艦長)がいい、一瞬にして雰囲気が変わった。」
つまりホーブロアは水も食料もあるのに嵐が嫌になって退避したのではないかと疑われたのです。まあこの嫌疑は解けてよかったのですが、この会話で乗員1人当たり1ガロンの水が標準であることが分かります。英ガロンは1ガロンで4.55リットルに相当しますから、1日3リットルで4週間過ごし、その後2.3リットルで1週間過ごしたことになります。言うまでもなくこれは飲用ばかりでなく、料理用も髭剃り用も、洗濯用もその他も全部含めての量ですから、いかに欠乏していたか分かります。
そういった状況を「砲艦ホットスパー」ではこのように表現しているのです。
「あらゆる用途に対し、一日二分の一ガロンの水——それも腐りかけている水——は、塩漬けの食糧にたよっている人間にとって、健康維持に必要な最低限をはるかに下回っている。それは苦痛ばかりでなく病人の発生を意味しているが、同時に、最後の一滴が飲み尽くされるのが16日先であることをも意味している。」
それはともかく、ホーブロアは任務中にエド・ペリュー提督から手紙を受け取ります。ペリューは彼が海尉時代から目にかけていてくれた提督で、転任のためホーブロアを指揮下に置けなくなったと告げた後に次のように書いています。
「私は君の報告書で君が不運にも当番兵を失ったことを知り、その代わりとして、君に断りなしにジェイムズ・ダウディを送り届けることにした。彼はマグニフィセント号の故スティーヴンス艦長の当番を務めた男で…長年君の世話をしてくれることを心から願っている・・・」
ホーブロアは「…自分の日常生活を嘲笑うに違いない貴人の元従僕を押し付けられたことも悪い知らせ…」だと思うのですが、どうしてどうして、早速その日の夕食に効果が表れます。唯一残っていた伊勢海老を使ってダウディは腕を振うのですが・・・
リンゴ酒をアペリティフに、ダウディが音もなく海図室に入ってきます。
「『皿が熱いですから。』
『これは、いったい、なんだ?』
『いせえびのカツレツです。』リンゴ酒を注ぎながらダウディがいい、わずかに目につく程度の身ぶりで、同時にテーブルの上においた木の鉢を示した。
『バターソースです。』
信じられなかった。皿にのっているきちんと形の整った茶色のカツレツは、外見にはいせえびとは似ても似つかないものであったが、ホーブロアが慎重にソースをつけて口に入れると、すばらしい味であった。肉をほぐしたいせえび。そしてダウディがひび割れた野菜皿のふたを取ると夢にも似た喜びを覚えた。金色のすばらしい新ジャガイモ。急いで口に運び、もう少しで口を焼きそうになった。その年初めての新ジャガイモほど美味なものはない。」
艦長クラスで最下級のコマンダーといえども、腕のいい召使を得るとこういったまともな食事ができるのです。因みに、艦長付書記や召使(艦長付きコックを兼ねた)、艦長用ギグの艇長(コクスン)といった一連の者たちは艦長が別の艦に移り、あるいは出世して提督になっても一緒に移動することが可能だったようです。これはおそらく貴族階級の習慣がそのまま軍艦の高級士官に残ったのだろうと思われるのですが、ボライソーシリーズを見ると特にコクスンがぴったりとボライソーに寄り添って行動することがたくさん出てきます。
ダウディのように腕利きの召使は、単に料理が上手というばかりではありません。艦長付当番の、いってみれば貴族の執事のような仲間うちで連絡を取り合うギルドのようなものがあったに違いありません。そして自分の主人のためにいろいろな物資(香辛料とか新鮮な野菜とか)を調達します。同じ艦内でも権威を笠に脅し、すかして手に入れることもあるでしょう。それも腕のうちです。
ところで、長期航海になるといくら頑張ってもまともな料理を艦長に出すことはできません。正規艦長に就任し、フリゲート艦リディヤで英国からホーン岬を回り中米の太平洋岸に達した長期航海ではどこにも寄っていませんでした。そのときの朝食です。
「ホーンブロアは、ボルウィール(注:この艦の艦長付召使)が朝食の支度をして待っている自室へ降りた。
『コーヒーです、艦長』とボルウィールが言った。
『バーグー(船乗りが食べるオートミールがゆ)です』
ホーンブロアは食卓についた。七ヵ月の航海で、うまい物はすべて、とうになくなっていた。コーヒーというのは、焦がしたパンの煎じ汁のことで、これの取り得といえばせいぜい甘くて熱いことぐらいだ。バーグーというのは堅パンをつぶした粉と切り刻んだ塩漬けの牛肉で作ったもので、見た目には何とも言いようがないが、匂いのいいこねものだ。ホーンブロアはうわの空で食べた。左手で、堅パンをテーブルに軽く打ちつけていると、バーグーを平らげるころには、こくぞう虫が堅パンから残らず出てしまう。」(この項のみ高橋泰邦訳)
艦長という、乗組員から見れば神の如き存在ならではの食事が日常ではあるのですが、戦闘時はもちろん長期航海でもみなと同じ災厄に見舞われます。おまけにほとんど空になった生活物資をどうやって補充するかはすべて艦長の責任です。長距離通信設備のない軍艦で、場合によっては外交官の役も務め、乗組員の食糧確保と健康保持、英国海軍は書類の海に浮かんでいるといわれる報告書などの書類の作成等々、その食事に見合う責任と比べて、さてどちらがいいか、これは考えどころかもしれません。